The Food Crafter
鯨は美味しい
美味しいは正義
東京・根津の奥にひっそりと店をかまえる『ひみつくじら』は名前からわかるように鯨の料理店。刺身やベーコンだけじゃない、新しい鯨料理を生み出す秘密の研究室であり、美味しいものを求める人たちが夜な夜な通う秘密基地でもある。
房総半島に伝わる
鯨文化を届けたい
ツチクジラは房総半島であがる。
鯨の街と言えば太地や土佐などが知られているが、実は東京から近い房総半島にも約400年の鯨文化がある。
千葉県南房総市で行われるツチクジラの解体には、多い時では20人もの男たちが加わり、およそ10メートルの巨体は、1時間半ほどですっかりブロックに仕分けされてしまう。
「近所の人たちは、解体が終わるころに集まってきて長蛇の列を作るんです。
そうして始まる即売会では次々に鯨肉が売れる。しかもみんなキロ単位で買うんです!」
そう教えてくれたのは、根津にある、鯨料理店『ひみつくじら』の店主石川元さんだ。
『ひみつくじら』は、日本初の、そして唯一の日本沿岸の捕鯨だけに特化した店だ。南房総を中心に、全国に四ケ所だけ残る沿岸捕鯨の基地から、何も余分なものが足されていない新鮮な鯨が直送されてくる。
「手にしたクーラーボックスやトレーからは大きな肉の塊が顔をのぞかせている。老若男女、みんながでっかい鯨の肉を当たり前のように抱えている風景ってなにかすごいんですよ。単に迫力満点や非日常的と言う意味ではなく、現代人が失ってしまったであろう懐かしく、和やかで原始的な風景が、今も鯨を中心に残っているんです」。
笑いながら石川さんが話す。確かにそれは、豪快な光景のようにも、見知らぬ国の風習のようにも思える。
地元のおばあちゃんたちは手慣れたもので、そのまま家の前の路地に陣取り、鯨の肉をさばいていく。いつしかご近所の人々が集まってきて、通りには海辺の町の陽気な笑い声が響く。
塩漬けにして干すという肉が、晴れた日は青空の下で翻る。海洋の民である日本人のルーツを物語るような場面が繰り広げられているのだ。
と、ここまでは石川さんが実際に房総で体験したという話を聞いてイメージしたもの。いつしか石川さんの話にぐいぐいと引き込まれ、のびやかでフォークロアな街の光景をいつかみて見たいという好奇心に掻き立てられていた。
世間的には、鯨肉といえば南氷洋で獲れたものが中心で、東京の隣、千葉県で水揚げされることはあまり知られていないという。つまりそれが東京で食べられるという話はもっと知られていない、ちょっとしたシークレットといってもいいくらいだ。
「ほとんどが地元で消費されていることもありますが、築地などでは、ツチクジラは少し低く見られているところがあるんですよ」。
石川さんの顔が曇る。
ツチクジラは深く潜るので肉に血液が多く、切り身にすると鉄分で肉が赤黒くなりやすく見栄えがあまり良くない。そこで通常の鯨に比べて扱いに知識と技術、手間がかかることが一点。
また、10mを超えるツチクジラだが、戦前戦後の大規模な捕鯨で得られた数十メートル級の鯨に比べると小ぶりのため、昔気質の築地の人々からすると、鯨らしくない印象を持たれているということもあるようだ。
しかし、適切な手当をすると事情は一変する。市場で主に流通する鯨とは段違いに艶やかで美味しいと、石川さんは顔をほころばせる。
何しろ東京から近い房総で獲れるのだから、鮮度のいい状態で運ぶことも可能だ。
そんなツチクジラの魅力を知ってもらおうと石川さんが始めたのが『ひみつくじら』だ。
房総のツチクジラを筆頭に、この日、鯨盛り合わせの皿には、ミンククジラ、前の週に石川さんが勉強に行っていた和歌山県太地町で仕入れた、スジイルカやカズハゴンドウクジラなどが並んだ。
美味しく食べる
そこから始まる物語もある
石川さんが鯨に魅せられたのは、子供の頃。初めて食べた鯨ベーコンの美味しさに驚いたからだ。その感動が原動力となって、鯨を食べる文化に関わりたいという一心から東京水産大学ヘ進み、後に鯨の加工品を扱う会社へ入社する。
そこで加工された鯨肉を扱いながら、石川さんは何がかが違うという思いを徐々に募らせていった。築地等で流通するほとんどの鯨には、増量剤や発色剤などの添加物が多く使われることもあり、子供の時に食べたあの感動の味ではなかったからだ。
「鯨は日本の伝統といいながら、大部分を輸入原料に頼っている実情を目の当たりにしたことは大きいですね。そんな時に、房総の鯨を食べる機会があり、その圧倒的な美味しさやルーツの深さに衝撃を受けました。そこから数々の疑問が確信に変わって、自分がやるべき鯨はこれだと直感したんです」。
そこでまずは実際に捕鯨基地と、その生活の様子を自分の目で見てみようと、そして現地の捕鯨会社の社長に想いをぶつけてみようと、房総を訪ねることに。
そこで体験した、鯨と共に生きてきた人々の“生(なま)の生活の様子”や、その鯨文化を支えてきた地元の捕鯨会社の社長の信念や世界観、本物の歴史の物語に触れた事が大きな転機となった。大学入学時から計画は温めていたものの、クリアに描けずにいた「日本の鯨文化がやるべきこと、この時代だからこそ鯨を通じてできること」が明確になったという。
「まずは食べて美味しいこと、感動すること、幸福な時間を過ごせることから始まって欲しいんです」。
鯨を食べることに関して石川さんのスタンスはとてもきっぱりしている。鯨を守ろうとか、鯨食は文化であるといった、様々な背景はひとまず脇へ置いておく。
「鯨を前にして起きているムズムズをお互いの理論だけで解消しようとするから、賛成する側にも、反対する側にもよくない連鎖が起きてしまうのです。なぜなら本来“食”に関する問題にもかかわらず、“実際に食べてみるという体験”がごっそり抜け落ちてしまっているためです」。
だから、店では“料理や一つ一つの食材へのこだわり”はたくさん説明するが、ありがちな“捕鯨が良いか、悪いか”といった話は一切ださない。しかし、興味を持った人には徹底的に説明できる準備を怠らない。それはとてもシンプルな方法だ。店の本棚には専門家も驚くような資料などが詰め込まれている。
「これは定番のツチクジラ、こっちは僕もこの間、初めて食べたカズハゴンドウです。食性の違いだと思われますが、ツチクジラは解体時に熟成させるため、味わいが深く柔らかいので、チーズなどと合わせると女性好みのなめらかで艶めかしい味わいを堪能できます。カズハゴンドウは肉の旨味がストレートで上品。肉の繊維の食感も楽しいので、シンプルに上質な塩とオイル、黒コショウだけでもいいですね。生もいいけど、炭火炙りも絶品です。自然ないい肉を食べてるという幸福感に浸れますよ」。
大きな皿に並ぶ鯨の刺し盛りを、目をキラキラさせて説明してくれる石川さん。鯨は食べたことはあっても、こんなにたくさんの種類を食べ比べるという経験はほとんどないから、目を丸くして聞き入ってしまった。どの鯨も臭みは一切なく、きれいな味わいだ。
カズハゴンドウクジラは、今年初めて商業捕鯨の枠が設けられた鯨だという。
「泳ぐときにスピードが出る鯨なので、筋肉が鎧のようについていて、腹側の肉は独特の食感なんです。ひらめの縁側を想像してもらえるとわかりやすいかもしれません」。
いかにも楽しそうに石川さんが言う。
『ひみつくじら』は鯨の食文化への深い愛と、その文化の地へのテロワールでできている。
HIMITSU KUJIRA
ひみつくじら
住所:東京都 文京区根津1-27-7
電話:03-5834-7157
営業時間:18:00~24:00(食材完売次第終了)
定休日:第1・3月曜日
予算:7,000円~
※掲載価格は税別価格です(2017年12月現在)
(取材&文・岡本ジュン 撮影・名取和久)
PROFILE 岡本ジュン
“おいしい料理とお酒には逆らわない”がモットーの食いしん坊ライター&編集者。出版社勤務を経てフリーに。「食べること」をテーマに、レストラン、レシピ、旅行などのジャンルで15年以上に渡って執筆。長年の修業(?)が役に立ち、胃袋と肝臓には自信あり。http://www.7q7.jp/