憧れの街に住もう
文京カルチェラタン※ 小石川【第1回】
豊かな緑に包まれた都内有数の
エデュケーショナルタウン
成熟した大人の感性に響く、上質なる住まい。
それが、モリモトのマンションブランド「ディアナコート」です。
Diana=月の女神、の名を冠したトップブランド、ディアナシリーズのなかでも、一切の妥協を許さないのが、そのロケーション。
都心に程近いだけでなく、最寄り駅にも便利な立地。さらにそこに広がる街が閑静かつ円熟していること。そこに住まうことで感じる日々の上質が、住まう人の喜びや充実感につながると私たちは考えているからです。
そんな「ディアナコート」が選んだ、次なるエリアが「文京区・小石川」。
山の手のお屋敷町として誕生、その跡地が教育機関に敷地に転用されたことから「文教地区」として確固たる地位を築いた「教育と文化の街」です。
「文京区・小石川」の街の魅力をご紹介していく本連載、その第1回は、まずこの“教育の街”という側面から、街を巡ってみたいと思います。
旧東京教育大学の足跡を残す
緑に囲まれた充実の学びの環境
東京メトロ茗荷谷駅に降り立ち、学び舎に向かう子供たちに誘われるように春日通りを渡ると、文京区立 教育の森公園が現れます。
江戸時代には、徳川光圀の弟・松平頼元が屋敷を構えたというこの地。1903年(明治36年)には、それまで湯島にあった東京高等師範学校が移転し、東京教育大学への改編を経て、1978年(昭和53年)に筑波大学として開学・移転されるまではこの地にありました。今でも、公園に隣接する形で筑波大学のキャンパスの一部が残存します。
旧東京教育大学の跡地を整備して誕生したここは、江戸にある名園のひとつにも数えられた松平家の庭園・占春園が今なお残り、歴史と文教の礎を感じ取ることができます。
また、駅から教育の森公園を繋ぐアプローチのように広がる窪町東公園の一角には、「神話空間への招待」と題された彫刻群が。これは文京区とドイツ・カイザースラウテルン市の姉妹都市提携のシンボルとして、彫刻家ゲルノト・ルンプフ、バルバラ・ルンプフ夫妻が作成したものです。ユニコーン、魚、アンモナイトを象った作品には、「日本の子供たちを、ドイツのおとぎ話の世界に案内したい」との思いが込められでいます。
駅からも程近いのに静寂に包まれた環境、江戸時代からの由緒ある土地柄とヨーロッパの都市広場を思わせる空間が共存する空気に、この街が “教育の街”として知られ、数々の教育機関が点在するのにも、納得が行く気がしました。
文化・教育の香り感じる
アカデミックスボットが点在
教育の森公園から後楽園方面へ歩いて行くと、東京学芸大学附属竹早小・中学校の校舎が。春日通りに面した正門からは少し奥まった位置にある校舎は、優々とした大木に囲まれます。近隣には、小石川図書館もあり、充実した環境を垣間見ることができます。
ちなみにこの小石川図書館、CD、DVD、楽譜をはじめ、公共図書館では他に類を見ない豊富な音楽資料がそろうことでも有名。平成世代には新鮮なレコードは、なんと2万枚近く所蔵されていているといい、音楽ファンには見逃せません。
また、ここ小石川は歌人・石川啄木終焉の地としても知られます。現在その地には、歌碑が建てられ、それに隣接する形で「石川啄木顕彰室」も。歌碑に刻まれているのは、没後に出版された「悲しき玩具」の冒頭2首。啄木最後の歌とされているものです。
顕彰室には、歌碑に使われた直筆原稿やこの地から送った手紙のほか、写真・パネルで啄木の足跡を辿ることができます。
日本医学の発展にも大きな役割を果たしてきた小石川地区。白山方面へと足を延ばすと広がる小石川植物園の敷地内には、江戸時代に幕府が設置した無料の医療施設、小石川養成所の井戸が残されています。
また、明治時代初期に東京府官立の医学教育期間として設立された東京医学校も、関東大震災以降、植物園に移築されました。今では重要文化財としてその姿を残しつつ、建築ミュージアムとしての機能も果たしています。
そして、千石・六義園の方まで散策すると、もうひとつ注目のミュージアムに出会うことができます。それが、東洋文庫ミュージアム。
東洋学研究の専門図書館・東洋文庫内に併設されたこちらは、貴重書の保存と展示を両立させるためにSFX技術を取り入れたり、タッチパネル操作で所蔵品を閲覧できたりと、常に新しい試みで文化の保護と普及に努めています。
古くからの教育と文化を今に伝える確固たる姿勢と、緑多き静寂に包まれた環境。それこそが、ここ小石川の魅力と言えるのでしょう。
(取材&文・坂本祥子 写真・清永 洋)
※ カルチェラタン
フランス・パリの5区、6区にまたがるエリアで、パリ大学をはじめ教育機関が集中していることから、昔から学生街として知られる。カルチェは“地区”、ラタンは“ラテン語”を意味し、直訳すると「ラテン語地区」。これは仏語が統一されていなかった時代、ヨーロッパ各地から集まった学生たちが、当時の国際言語だったラテン語で会話したことに由来している。