老舗の手みやげ

2018.12.10

江戸時代から変わらぬ味
榮太樓總本鋪「梅ぼ志飴」

その形から名づけられた

「梅ぼ志飴」

 

砂糖を煮て作られた南蛮菓子の有平糖(あるへいとう)。江戸の庶民にとっては高価だったこの有平糖をもっと気軽にと、創意工夫から生まれたのが、この「梅ぼ志飴」だ。

「梅ぼ志飴」という名前ではあるが、その味は深みがありほどよく甘い。

 

まだ固まりきらないうちに飴をはさみで切り、指でつまんだ三角の形が梅干しに似ていると、洒落好きの江戸っ子たちが「梅ぼ志飴」と名付けたという。甘いものを酸っぱいものにたとえる、エスプリの効いた発想はいかにも江戸っ子らしい。

 

角が丸い三角の形が特徴的な梅ぼ志飴 1缶360円(税別)

 

その製法は江戸時代から変わらず、ザラメとさつま芋から作られた水飴を高熱の直火で加熱して飴を煮詰め、鍋からおろすタイミングは職人が見極める。そして適度な温度と硬さになった時、三角に成型。特徴的な三角形の角が丸くなっているのは、口中を傷つけない配慮とともに持ち歩いても飴が欠けにくい工夫でもある。

 

飽きが来ないのはカラメルを主体とした複雑な風味に独特のコクがあるから。また、砂糖純度が高いため、いくつ舐めても口の中が荒れにくい。

化粧品の乏しい明治・大正の頃には、上方の芸妓・舞妓たちの間で、この「梅ぼ志飴」を唇に塗ってから口紅をつけると口唇が荒れず紅にツヤが出ると評判になり東京土産として人気を博した。

 

 

創業200年、思いは変わらず

新たな挑戦も

 

榮太樓總本鋪の創業は1818年だが、その歴史は1700年代まで遡る。武州飯能町(今の埼玉県飯能市)で代々士族であった吉左衛門四世が、その位を捨てて菓子業を始め、善兵衛と名を改めた。当時は、金鍔や飴などの商品はなく、煎餅焼きが中心だったという。

 

そしてこの善兵衛の孫、細田徳兵衛が1818年に孫二人を連れて江戸御府内に出府。九段坂で「井筒屋」という店を構え、煎餅焼きの商売を開始した。これが今に続く店の礎となった。

 

「榮太樓總本鋪」の名前の由来ともなった細田栄太郎(細田安兵衛三世)氏

 

時は流れ、店を受け継いだ細田安兵衛三世は、1857年(安政4)日本橋西河岸町(現在の栄太楼ビルのある地)に店舗を構えた。店は繁盛し甘くて栄養価も高い金鍔は、とくに魚河岸で働く「軽子」(運搬系の仕事をする者)たちに大人気の商品に。

安兵衛は幼名を栄太郎といい、幼いころから父の手伝いをよくする「孝行息子の栄太郎」で通っていた。その人柄も手伝って、店の屋号は井筒屋だったが「栄太郎の金鍔」「栄太郎の店」と客から親しまれることに。それならば、と数年後に店名も「榮太楼」に改め、日本初の甘納豆や山葵(わさび)菓子、同店を代表する商品である梅ぼ志飴など数々のヒット商品生み出した。

 

明治10年頃の本店

 

東京大空襲では日本橋店舗・工場が焼失したものの戦後すぐに復興を志し、日本橋の拠り所として、日本橋本店内に喫茶室を開設した。昭和26年には、日本初の食品名店街で現在のデパ地下のルーツでもある、東急東横のれん街の設立に尽力。昭和37年に、創業の地である日本橋に栄太楼ビルを竣工した。

 

有平糖をベースにした「みつあめ」をチューブに入れ、グロスリップのように仕上げたスイートリップ 1本550円(税別)~/あめやえいたろう

 

平成19年には榮太樓のセカンドブランドとして「あめやえいたろう」が誕生。コスメのようなパッケージが女性たちの話題を呼び、季節商品は品切れが続出するなど常に注目されるブランドに成長している。

 

榮太樓總本鋪200周年を記念した小さめサイズのポケット缶のセット。5缶入り1900円(税別)

 

浮世絵イラストレーターNAGA氏描き下ろし(左)と歌川広重「日本橋 朝之景」(右)をあしらった缶

 

2018年には創業200年を迎え、それを記念した商品も発売。抹茶飴の缶には歌川広重が描いた東海道五十三次の巻頭を飾る「日本橋 朝之景」を、バニラミルク飴の缶には浮世絵イラストレーターNAGA氏描き下ろし近未来の日本橋を表面にデザイン。

日本橋の地で古の時代に思いを馳せながら、未来を見つめ続ける同店の志を感じ取ることができる。

 

常に「新しいおいしさをお客様にお届けしたい」という細田安兵衛の気持ちは今もしっかりと息づいている。

 

取材・文/SUMAU編集部 梅ぼ志飴商品写真/三浦 大

 

榮太樓總本鋪 日本橋本店

住所:〒103-0027 東京都中央区日本橋 1-2-5

TEL:03-3271-7785

営業時間:9:30~18:00(月~土)

定休日:日曜・祝日

URL:http://www.eitaro.com/